14. 人見さん <第一話>

人見さんの著書に、「答えは必ずある」という本がある。ここまで語って良いのかなと思える暴露本?である。この中にも、私は実名で登場する。SKYACTIVエンジンが開発された時のエピソード、その考え方の哲学が書かれた本だった。 その本が出版されたとき、人見さんから「渡したいものがあるから席まで来てくれ」、と呼び出され、その本を受けとった。自筆サインがあり、「大酒豪 **さんへ 人見光夫 2015年2月20日」と記されてあった。
私と人見さんとの出会いは、2004年。私はある確信と志があって、人見部長の部門への異動を志願した。少し話を遡ると、私は2002年頃から、商品構想設計をモデルベース開発を使って革新する取り組みを行ってきたのであるが、それは成果が出たものの、どうにもならない限界も感じていた。その限界の理由は、いずれも先行開発段階での技術準備に関わることであった。それをブレークスルーする取り組みを、じっくりやってみたい、ということが志願の理由だった。
2004年に転籍してしばらくして、CAE解析部門のグループマネージャーに任命された。当時は、まだまだモデルベース開発は日陰の存在で、設計者の頼りにされていると感じたことはほぼなかった。当初は、人見部長にとっても、不可欠な存在ではなかったかもしれない。天才にとっては、MBDなんかなくても、大きな成果を出せる自信があったはずである。人見さん個人には必要なかったはずだが、それ以外の社員の考える力を増強&効率化するために必要であるという意義だったと思う。少なくとも当時は。事実、「こんな答えになると思うのだけど確かめてくれるか?」と人見部長から依頼されて、1ヶ月以上かけてスーパーコンピュータで計算しまくって求めた答えが、人見さんのおっしゃる通りになる、それがたびたびそうなるものだから、天才に感心しつつも、エンジニアのほうではではさみしい感じがしたものだった。
しかし、究極の貧乏が人見さんの心も動かしたと感じている。当時、大きなリストラの直後で、人見部長率いるパワートレインの先行開発の人員は70名。うち40名は量産開発の不具合解析などしている実態だったので、純粋に先行開発している人員は、たった30名。予算もつけてもらえない。新人もほぼ入ってこない。当時、大手自動車メーカーでは、パワートレイン先行開発は1000名体制であったから、これでは何もできない、とんでもない超効率化革新をするしか手はない、という考えに行き着いたわけだ。
私はその20年前から、終始、モデルベース開発による開発革新を、会社生活でのライフワークにしてきた変人。人見さんの思いと、私のやってきたことは完璧なマリアージュをした、ワインとチーズの関係のように。 開発生産性を数倍上げるための構想書は、二人三脚でどんどん仕上がっていった。そして、役員への提案の機会が来た時、人見さんは完璧な話術で役員の心を鷲掴みにした。それはこうだ。
「私たちは野球をしたいのですが、ボールもバットもありません。人もお金もないのは知っていますが、せめてボールとバットだけ買ってください。」 私たちにとってのボールとバットは、スーパーコンピュータであった、これから毎年の投資がはじまった。
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〜 ミスター・モデルベース開発 と呼ばれた男の独言 〜
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